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ももじろう story

短くて簡単な物語?を書いています(`・ω・´)ゞ

純粋な人 人を信じすぎる人

純粋って

大人からもてはやされます

 

純粋すぎる人は

大人からバカにされます

 

 

 

子どもって

純粋だとか

きれいな心を持っているとかいう

風潮があります

 

子どもって

知識がありません

 

社会のルールも

暗黙のルールも

迷惑をかけることも

迷惑をかけられることへのむかつきも

 

経験も

知識も

なにもありません

 

 

子どもは

家族をみて

友だちを見て

学校での生活で

 

社会を

世間を知っていきます

経験していきます

 

 

 

 

知らないことは

純粋なのでしょうか

 

よく性的な

知識を知らない若者は

純粋であると

もてはやされます

 

知らないということは

純粋というわけではありません

 

 

純粋というのは

真っ白で

混じりけがありません

 

知識がないということは

そいう意味では

知識のなさで言えば

真っ白なのかもしれません

 

 

 

ですけど

混じりけは

どこかであるはずです

 

ぼくたちは

この世に産まれて

 

母というものを

理解はしなくても

接することができます

 

 

ぼくたちは

産まれてすぐに

人と関わり

混じり合うのです

 

 

 

 

純粋というのは

疑うことであったりとか

憎しみとか悲しみというか

なんというか

 

ネガティブな感情というものを

知らない人であるという風潮があります

 

 

純粋な人は

人を信じすぎるとか

 

疑うことを知らないとか

 

 

 

ぼくたちは

人に裏切られて

人に裏切られる人を見て

 

裏切りが悪いものである

傷つけるものであると知って

 

はじめて

疑うことを覚えます

 

 

 

では

疑いを知らない間は

全てのことを信じているのでしょうか

 

 

たぶん

信じてはいないのかと思います

 

信じるということは

裏切ることを知って

はじめて

尊いものであるとか

 

信じるべきものであるとか

 

 

そういうことを知っていくのだと思います

 

 

 

 

疑うことを知らない人は

信じるというよりも

ただ

それが言葉であると

ただ

それが思いであると

 

そう認識しているだけなんじゃないかと思うんです

 

 

 

 

だって

そもそも

言葉自体に偽りはありません

 

言葉に

思いが乗っかることによって

はじめて

言葉が思いになります

 

 

 

 

言葉に悪意や

善意や気持ちが乗っかることで

 

ぼくたちは

言葉の重みを思いを

理解することができます

 

 

 

 

疑うよりも

信じることのほうがいい

 

この世に信じるべきものはない

すべてを疑うんだ

 

そんなことを聞いたことがあります

 

 

信じたって疑ったって

傷つくときは傷つきますし

安心するときは安心します

 

裏切りは傷つきますし

疑うことは罪悪感になります

 

じゃあ

なんのために

ぼくたちは

疑い

信じるのでしょうか

 

 

そんなもの

傷つきたくないから

 

信じたいから

 

疑うし

信じるのではないでしょうか

 

 

 

 

だとしたら

ぼくたちは

傷つかないことよりも

 

信じたい思いを

大切にしたほうが

なんというか

楽になるんじゃないかと思うんです

 

 

どっちにしたって

傷つくかもしれないのなら

 

信じたいものを信じればいい

 

 

真実を

偽物を

 

どんなものでも

信じるということは

 

幸せなものであると思うんです

 

 

 

正しい物を

信じることが正解ではないこともありますから